第4章 『最後の奴隷』

お師さん、お元気ですか?

早いものでもう渡米してから9年になろうとしています。

はじめてお師さんに出会ったのは1992年のクリスマスイブでしたね。まだ僕は医学部の4年生でした。あの日、とある巨大な研究室をたずねた僕は当時そこの助手をしていたお師さんに出会いました。はじめてお師さんに会った僕はあまりの徳の高さに涙が出そうになりました。いきなり僕を見下ろすと、

「ま、奴隷になるつもりなら、1か月で分子生物学の基本的な実験手技をたたきこんであげますけどね。そうだな、今日はとりあえず俺の机をかたづけてもらおうか。うわ、汚ねえ。気合入ってるなこの机。っつうことで。じゃあな。俺はずらかるぜ。」

机は破滅的に汚く気が遠くなりましたが、「これも分子生物学の修行のため」と思い、必死になってがんばりました。かたづけ終わったのは夜もかなりふけてからでした。クリスマスイブの夜はお師さんのゴミとともに過ごしたんですよ。でもこのとき僕は分子生物学の世界に足を踏み入れていたんですね。あのゴミの山の中に分子生物学の奥義が埋まっていたんですよね。お師さんはそれを僕に伝えたかったんですよね。僕は奴隷になろうと決めました。

朝10時ごろからはじまる過酷な労働は午前1時の終電がなくなったあとまで続きました。車で来ていた私の一日の最後の仕事はお師さんを家まで送ることでしたね。でもあそこまで働くとむしろ快楽に変わっていくのは不思議ですね。エンドルフィンの分泌が活発になるのですかね?それとも単に酸欠になっていくのでしょうか?お師さんもよく、

「高橋、今日はよく働いたな。気持ちいいだろう。」

と言ってくれましたね。本当に気持ちよかったです。嘘ではありませんよ。

研究室の先輩と暗室で一緒に仕事をしたときに、その先輩はどもりがちに重い口を開きました。

「ねえ、この研究室ってきつくない?僕、きつすぎて血球の数まで減っちゃったよ。高橋君はまだ学部の学生だし、つらかったらやめてもいいんだよ。」

でも、僕は気持ちがよくなるんですよ。きついなんて思いませんでした。

働き出して1か月もたったころでしょうか?あの日は本当にどうかしていました。妙にイライラしていたのです。常用していた薬が切れていたのかもしれません。夕食のときは研究所の近くの喫茶店で食い逃げをしてしまいました。あの夜、僕はいつものようにお師さんを車に乗せて家に送りにいっていましたね。僕の車は外苑西通りを時速160キロで走っていました。いつもはそんなに飛ばさないんです。あの時だけだったんです。あまり記憶に残っていません。

「俺、凄く速いんだ」

 

お師さんにも失礼なことをたくさん言っていたかもしれません。あの時の僕は悪意のかたまりでした。クラクションを鳴らしてきたタクシーの運転手を殴ろうとしていた情景も断片的にしか頭に残っていませんでした。その翌日からお師さんは僕のことを「高橋」ではなく「高橋君」と呼ぶようになりましたね。そして家まで送るように頼むこともなくなりました。悲しかったです。僕はもっとお師さんに尽くしたかったんです。

はじめてお師さんのもとでやったprojectはショウジョウバエのある受容体の同定でしたね。その受容体の哺乳類のHomologueが別のラボで取れてきたという情報を入手したお師さんは、そのクローンを使ってLow StringencyのHybridizationでショウジョウバエのライブラリーから同定しようという作戦をとりましたね。はじめてPlaque Hybridizationを習った僕にとっては全てが新鮮でexcitingでした。特に、probeをdenatureするときは圧巻でしたね。50mlのplastic tubeに25mlのprehybridization溶液をいれ、それにアイソトープでラベルしたprobeを混ぜ、そのtubeごと沸騰したboiling bathにぶち込む。10分もぐつぐつ煮ていると50mlのtubeが熱でぐにゃっと曲がってきます。それを見たお師さんは、

「おお。気合入ってきたな。そろそろ引き上げろ。」

と言いました。アイソトープの実験など当然初めてだったので少し怖かったです。「はじめにprobeだけを小さいeppendorf tubeにいれてdenatureしてからPrehybridization の溶液に入れたら?」とも思いました。でもやっぱりあの50mlのtubeがくにゃっと曲がっていくときの快感は忘れられませんよね。お師さんもそれが好きだったんですよね。

First screeningでpositiveなPlaqueが見つかったときは二人して飲みにいきましたね。あのたった一つだけあったpositiveのplaqueを見つけた時、お師さんは、

「Cellだな。」

と口走りましたね。「Cell」っていう名の雑誌があることは知っていました。「きっとすごいことなんだろうなあ。」と思って、僕は2か月間必死になって働きました。体重も5キロほど減少し、学期末試験とも重なって肉体はぼろぼろになっていました。さらに運が悪いことに、中華料理屋にいったときにとなりの知らないおっさんが残した餃子を食ってから発熱がとまりませんでした。そんな中で僕はついにクローンのsingle isolationに成功し、シークエンスをしました。その結果そのクローンは「RNAへリカーゼ」であることがわかりました。受容体のクローニングをやってきたのになぜRNAへリカーゼだったのか?お師さんは、

「ちっ、ついてねえな。なんでRNAへリカーゼなんだよ。あ、待てよ。俺がはじめにprobeを作ったんだよな。俺、もしかしたら、Bluescriptのベクターの方切ってprobe作ったかもしれねえ。まあ、こんなもんですよ。はっはっは、、、」

きっとお師さんは僕に試練を与えたかったんですよね。ありがとうございます。

そのあとしばらく学校の方もいそがしく少し研究室からも足が遠のいていました。そのころ「大学院生だったときにお師さんから直接実験の指導は受けていた」という人に会いました。どこのものかはわかりませんが、彼には独特のなまりがあるので注釈をつけておきます。

「校門をちょろっと入ってからにゅろにょろっと歩いていくとやべえ建物があるじゃん。あそこの4階で実験習ってたんだけどさ。俺が初めて(お師さんから)習った実験がまたゼツ(絶品)でさ。いや、単にLarge ScaleしたDNAをセシウムのgradientを使って超遠心で振ってとるだけっていうしょぼい実験なんだけどね。(お師さんは)それに命をかけててね。セシウムのgradientを作ってから別の建物の4階までは運ぶんだよ。超遠心機がそこにしかなかったんだよね。これはたいへんだったよ。セシウムのgradientを作ったTubeを持って階段を4階から下までおりてまた別の校舎の4階に運ぶんだぜ。必死になって運んでいる横で(お師さんが)“てめえ、絶対gradientくずすんじゃねえぞ。気合入れてな。”ってプレッシャーかけてくるからね。よっぽど“超遠心機の横でセシウムのgradient作ったら?”って言おうと思ったけど、そう言わせない雰囲気があったよね。でもおかげで体のバランスはゼツ(絶品)になったよ。」

そうこうしているうちに僕も大学を卒業しました。その年の9月から米国の大学院に進学することに決まっていた僕は9月までの半年間、某大学で教授になったばかりのお師さんのところで働くことにしました。そのときも僕はLow Stringency Hybridizationを使って、今度はハエの転写因子のマウスのHomologueをとるというprojectに従事しましたね。そして3か月の期間を経てついにクローンのsingle isolationまでこぎつけました。増やしたファージのDNAをたいへん楽で便利なQiagenのキットを使って精製し、EcoRIサイトに入っているはずのInsertを切り出そうとしました。ところが、切っても切ってもなにも出てきません。そこで僕はお師さんに相談したところ、

「Qiagen使っただろう?気合が足りねえんだよ。超遠心使え、超遠心。」

と喝を入れられ、その日二人で夜3時くらいまでかかって超遠心をつかってDNAを精製しましたね。あのあと2人で食った牛丼の味は今でもわすれられません。そのDNAはかなりの量で、水に溶かそうとしましたが、ゲル状にしかなりませんでした。それを見てお師さんは満足そうにこう言いました。

「どうだ。どっと取れただろう。」

翌日僕はそのゲル状の液体を薄めて濃度を測ろうとしましたが、濃すぎていくら薄めてもODメーターは「エラー」の表示を繰り返すだけでした。当時の時代背景もあってお師さんは畏怖の念を込めて「尊師」と呼ばれていましたが、僕はノートにそっと、「そんしDNA  濃度無限大」と書き込みました。

早速そのお師さん入魂のDNAをEcoRIで切ってみましたが、やはりInsertが見えませんでした。結局僕はその3か月でライブラリーのベクターをせっせとscreeningし、精製してたことになってしまいました。これから書くことはあまりに恐ろしくて今だから告白できることですが、こともあろうに僕はお師さん入魂の無限大DNAを「なーんだ、やっぱりゴミじゃねえか」と思ってすぐに捨ててしまったのです。その翌日お師さんは、

「おい、あのどっと取れたDNAどこやった?」

と聞いてきました。あの時の僕の全身から噴出した汗のべっとりとした感覚はいまでも忘れられません。僕はとっさに、

「あ、ちょっと待ってください。出しておきます。」

といってその場を切り抜け、その日のうちに荷物をまとめてアメリカに逃亡しました。もう今だったら許してくれますよね?

話は前後しますが、大学6年になったばかりのころだったでしょうか?僕がアメリカの大学院に行きたいということをお師さんに告白したときは「反対されるかもしれない」とちょっと思いました。お師さんにScienceをいろいろ教えて頂いたことへの恩返しをすることなくアメリカに行ってしまうのは人としての道に反するのでは?とも考えました。でもお師さんは、

「それはいいアイデアだ。全面的に協力するよ。」

と快く言ってくれました。それからはアメリカに学会にいったときを利用していろいろな情報を集めてきてくれましたね。大学院を受験する直前の夏休みにもたくさん紹介状を書いてくれたおかげで、いろいろな人に会うことができました。本当に感謝しています。お師さんのバックアップがなかったら僕は大学院に入れなかったでしょう。僕のYale大学進学が決まってからも、いろいろ協力してくれましたね。

「ボストンの学会にいったときに聞いてきたんだけどさ。Yaleにいる“スト、なんとか、マザー”とかってやつが凄い奴だって噂だぞ。」

その「スト なんとか マザー」こそが、僕の大学院のアドバイザーになった「Strittmatter先生」だったのです。

 あれから月日が矢のように過ぎました。今では60人も部下がいるとか。立派になられたのですね。時代の流れでしょうか?それとももうその必要がなくなったからでしょうか?お師さんが布いていた奴隷制度も今では崩壊したと風の噂に聞きました。でもお師さん、あのころほど楽しかったことはありません。この間久しぶりに会った先輩が遠い目をしながらなつかしそうにこうつぶやいていました。
 
 
 
「高橋君は最後の奴隷だったんだよ。」

 

Editor’s comment: この話がもし実話なら、この「お師さん」という方、ただもんじゃありませんね。一度お目にかかってみたい気も致しますが。。。まあ、authorのような楽しい方も、今はあまりいなくなったのは残念です。この原稿ですが、依頼原稿なのに、某雑誌社からrejectされたというレアものだそうです。私は、authorの伝えたいメッセージが巧みに見え隠れする、大変インパクトある文章だと思いま した。今の若者に元気を出していただくためにも”Acceptable in the present form”と致しました。

2004年10月27日 Editor-in -Chief

 
 
>>第5章

Comments are closed.