第3章 『2001年秋のヤンキース』

「Destiny」…… あの朝、崩れていくビルは最後まで自分の運命と戦っていた多くの人々を容赦なく飲み込んでいった。

Osama bin Ladinの執念の集大成ともいえる世界貿易センタービルへのテロがおこった2001年9月11日は、アメリカのみならず世界中の人々にとっても忘れられない日になった。その日、アメリカの力の象徴ともいえたあの2つの摩天楼はあまりにももろく崩れ去った。吐き気をもよおすような独善的なアメリカの外交も確かに原因の一つだったかもしれない。ただ数千人もの人の命が一瞬にして瓦礫の下に消えてなくなったということはまぎれもない悲劇だった。

 アメリカではきついことを乗り切ったあとよく「I survived」と多少大げさな表現をつかったりする。「きついこと」といってもたいしたことではない。例えば面接官に厳しい質問攻めにあった時とか、朝からいそがしすぎてなにも食べてなかった時とかせいぜいその程度のものだ。しかし、このときだけはこの言葉がその通りの意味として使われていた。

2機のジェット機が世界貿易センタービルにつっこんだときにちょうど向かいのビルで資格試験を受けていた友人は気付いたら10キロ近く全力疾走していたそうだ。

同じアパートにすむ住人の一人からは「たまたま休暇をとってあのビルに行かなかったから自分は助かったが、友人がたくさん亡くなった」などという声も聞こえてきた。

普段はいつも明るくて研究室の雰囲気を和ませてくれる技官の女性は、自分の机にあるコンピューターのスクリーンに映し出した世界貿易センタービルの「遺影」をいつまでもながめていた。

まるでざっくりと斧で頭を打ち込まれたあとのようななまなましい傷口を見せつけられているかのようだった。New Yorkに住む人々があのころ自分達をよみがえらせる何か救世主のようなものにすがろうとしていたのは間違いないだろう。そしてそうした救世主待望の中、「常勝」New York ヤンキースはかつてない重圧を背負ってプレーオフに進んでいった。

アメリカは「娯楽」の国である。文化といえるものがほとんどない中で、「娯楽」だけはアメリカが世界に誇る文化といってもいいかもしれない。研究者の世界でもアメリカ人の「娯楽好き」は幅をきかせている。たとえばヨーロッパや日本に比べて「talk」、いわゆるパフォーマンスの持つ重要性は高いように思える。いかにいい論文を出していても口頭での研究発表が優れていなければ評価は激減する。聴衆を「楽しませる」ようにすることが必要なのである。スポーツの世界はもっと顕著だ。春から秋にかけてベースボール、秋口から冬にかけてはアメリカンフットボール、バスケットボール、アイスホッケーといった感じで全く途切れることがない。好みはいろいろあるだろうが、アメリカで生まれた競技の娯楽性は他に類を見ないと思う。とりわけ競技をやる人間側だけでなく見る側の立場も計算されつくしているという点は卓越している。まさに娯楽を考える天才としかいいようがない。それだけにアメリカ人が娯楽にかけるエネルギーも相当のものだ。特にベースボールは年間に162試合もあり、これにのめりこむとかなりの時間と労力を消耗する。さらに「合衆国」であるアメリカは州ごとの地域性が非常に高い。そのせいか自分の住んでいる、あるいは育った町に対する思い入れも強く、地元をホームにするスポーツチームに対するのめりこみ方も半端ではない。信じがたいことではあるが、ホームチームが大事な試合で敗れたりすると町全体の雰囲気が暗く沈みこむのも珍しいことではない。多くのアメリカ人にとっては「たかが野球」ではないのである。しかし、メジャーリーグの100年以上の歴史の中でもこのときほどベースボールが意味を持ったことはなかったかもしれない。

30個近くあるメジャーリーグの球団はAmerican LeagueとNational Leagueの2つにまず分けられる。そしてそれぞれのリーグはさらに東地区、中地区、西地区の3つに分けられる。162試合あるregular seasonで各地区の1位のチーム、および勝率が一番高い2位チームの計4チームがそれぞれAmerican LeagueとNational leagueから選ばれ、したがって合計8チームがポストシーズンに駒を進めることになる。これらの8つのチームのトーナメントになるのでチャンピオンになるためには3回勝たなくてはならない。始めの一回戦はDivision Series と呼ばれ3戦先勝、その次(League Championship Series)、および決勝戦(World Series)は4戦先勝で勝者を決める。この過酷なシステムになったのは1995年からで、10月の1か月間は緊張感があふれる死闘が繰り広げられる。

 ヤンキースは100年の歴史を誇る名門球団である。かつてBabe RuthやJoe DiMaggioなどの多くの名選手を輩出し何回となく栄華を極めたが、1980年代から1990年代半ばまでは大型補強が全て裏目に出て地区優勝すら困難な暗黒時代が続いた。しかし、若きGeneral ManagerのBrian Cashmanを中心としたスタッフは、若手の育成と頭脳的な補強により、ついに奇跡ともいえる史上最強のチームを作り上げた。1998年のことである。この年、年間114勝というリーグ記録を樹立すると、プレーオフも圧倒的な強さで制し最強の名を欲しいままにした。その後2000年までほとんどつけいる隙を与えず3年の間ワールドチャンピオンとして君臨しつづけた。1995年以後システムが変わりより過酷なポストシーズンになったことを考えると、3連覇というのは離れ業といってもいい。総年棒こそ今の半分くらいでスーパースターといえる選手もほとんどいなかったが、勝てる要素をすべて兼ね備えた完璧なチームだった。特に逆境に強く大事な場面で必ず奇跡的な仕事をするという神秘的なチームカラーは素直にかっこよかった。いつしか「勝ち方を知っているチーム」と形容されるようになった。しかし、どんなチームも年齢という自然現象には勝てない。この無敵を誇ったチームも2001年には見た目にも明らかなほど戦力が落ちていた。

 この年のプレーオフの1回戦で、いきなりヤンキースは窮地に立たされた。3戦先勝のシリーズでホームでの第1戦、第2戦を落としたのだ。しかしヤンキースの至宝ショートストップのDerek Jeterが魅せたミラクルプレーがシリーズの流れを変えた。第3戦は両チームの先発投手の息詰る投手戦だった。ヤンキースが1−0とリードしていた7回裏のアスレチックスの攻撃のときだった。ランナーを一塁においた状態で打者が打った痛烈な打球は1塁線を破りライトのポール際までころがっていった。右翼手が追いついてホームに返球したボールは距離が足りず1塁とホームの間に力なくバウンドした。そのとき一塁ランナーだったGiambiはホームに突入しようとしていた。誰もが同点を確信していた。しかし、その瞬間、ショートストップのJeterは風のようにショートから1塁線にあらわれ、ワンバウンドした右翼手からのボールをつかむとバックトスでキャッチャーに送った。際どい判定だったが、ランナーのGiambiはタッチアウトになった。この「野球本能のかたまり」のような男の奇跡的なプレーにより息を吹き返したヤンキースはこの試合を含めて3連勝しDivision Seriesを制した。

このころのヤンキースには2つのギアがあった。Regular seasonを戦うギアと、10月のプレーオフになると使われるトップギアである。10月になると彼らのプレースタイルは劇的に変化する。投手陣は隙をみせなくなり、打線も少ないチャンスを必ずいかすようになる。さらに目に見えないところにいろいろな罠をしかけ、相手チームのペースを少しずつ崩していく。Derek Jeterのプレーで10月のトップギアになったヤンキースは次のLeague Championship Seriesでイチロー擁するシアトルマリナーズを赤子の手をひねるような容易さで下し、4年連続のWorld Seriesへと駒を進めた。このWorld Seriesでヤンキースはアリゾナダイアモンドバックスと歴史に残る死闘を演じることになる。

 アリゾナダイアモンドバックスは創立数年の若い球団だった。しかし「若い」というのは球団の歴史だけで、チーム自体はWorld Seriesのチャンピオンリングを渇望したベテラン選手の寄せ集めだった。精神的にもタフで、まさに水のない砂漠でもしぶとく生き延びる蛇のようなチームだった。特に左右のエースであるRandy JohnsonとCurt Schillingは30代も後半にさしかかっていてWorld Series優勝にかける執念にはすさまじいものがあった。

 この両投手の鬼気迫るピッチングの前に連敗を喫したヤンキースは背水の陣でホームに戻ってきた。9・11テロ後初めてのWorld Seriesになったわけだが、テレビでの観戦でもYankee Stadiumの雰囲気が異様なのははっきりとわかった。観客席には世界貿易センターのテロで亡くした身内の遺影とともに観戦しているファンも見られた。多くの犠牲者が出たNew York 警察の「NYPD」というロゴを書いたパネルを掲げてるファンも多数いた。そういったファンの咆哮はYankee Stadium全体に凄まじいうねりとなって広がっていた。その慟哭はまるで必死に救世主に救いを求めている祈りのようだった。第3戦をエースのClemensの力投で制したヤンキースは第4戦をむかえた。決定的なチャンスがないまま試合はずるずると進み、ヤンキースが2点を追う展開で9回裏2アウトという絶体絶命の窮地に追い込まれた。このピンチにランナーを一人おいて打席に立ったのがこのシリーズで不振を極めていた主砲Tino Martinezだった。奇跡を期待するファンとヤンキースの選手が見守る中、初球をフルスイングすると白球は狂乱のセンタースタンドに吸い込まれていった。土壇場での同点ホームラン。その後Jeterのサヨナラホームランで延長戦を制すると、ヤンキースは第5戦でもビデオで録画を流しているかのような奇跡を繰り返した。2点を再び追っての9回裏2アウトからの同点ホームラン、延長戦でのサヨナラ勝ち。連夜の神秘に狂喜するファンの地響きのような歓声は、例えそれが一瞬のものであるにせよ、様々な心の傷を昇華させるのに十分なものだったはずだ。

「理由は全くわからない。ただYankee Stadiumで勝つのは不可能だ。」

あるアリゾナの選手は呆然としながらそうつぶやいていた。

試合が終わっても狂宴が続くスタンドには「Destiny」と書かれたパネルがちらほら見られた。いったい、どういう運命をファンは待っていたのだろうか?ヤンキースのメンバーの思い、New Yorkerの思い、その全てを飲み込んで運命の奔流はたった一つの結末にむかって流れていく。

舞台は砂漠のアリゾナに移る。完全に流れがヤンキースに向いたかと思われたが、アリゾナも執念を見せ第6戦を圧勝で制すると、シリーズは3勝3敗のタイになり最終戦である第7戦に進んだ。ヤンキースのエース Clemensとアリゾナのエース Schillingの息詰る投げあいは7回裏にアリゾナが1点を先制して動いた。しかし8回表に持ち前の粘りを見せヤンキースが2点をとって逆転すると、ヤンキースは史上最強とも言われている守護神Riveraを8回裏に投入した。3連覇の間どれだけ多くの球団がプレーオフでこのRiveraに挑み、散っていったことだろう。彼の投じる150キロ台半ばの高速スライダーは「キラーカッター」と呼ばれ、現役投手の投げる球の中で最も打ちにくいとされている。8回裏Riveraが圧倒的な力でアリゾナ打線を封じれば、それに答えるかのようにSchillingの後にマウンドに立った左腕エースのRandy Johnsonが9回表のヤンキースの攻撃を抑えた。試合は9回裏へと進んでいった。8回くらいに突然降り出した砂漠ではめずらしい雨がいつしかすっかり上がっていた。ヤンキースの4連覇は目前だった。しかし、度重なる連投でRiveraの肉体は限界に達していた。すでにこのとき王者ヤンキースの牙城は崩れ始めていたのだろう。先頭打者がセンター前にヒットを打つと、続く打者のバント処理をRiveraが2塁に暴投しノーアウト1塁2塁のピンチを向かえた。そしてついに Womackのライト前ヒットで同点に追いつかれると、流れは完全にアリゾナのものになった。圧倒的な運命の波は王者をまさに飲み込もうとしていた。それでも必死にそれに抗おうとする戦士の姿がそこにはあった。マウンドに集まるヤンキースの選手たち。1アウト満塁。3塁ランナーのホームベースへの突入をなんとしても阻止しなければならない。ヤンキースの内野陣は最後の望みをかけて前進守備をしいた。

奇跡を見せてくれ。あと1度だけでいいから。みんなを、New Yorkを救ってくれ。。。。

しかし、アリゾナの主砲Gonzalezのあたりそこないの打球は無情にも前進守備をしているショートの頭をわずかに超えてセンター前に落ちた。このとき王者ヤンキースの不敗神話はあたかも世界貿易センターが崩れ落ちるかのように一瞬にして瓦解した。アリゾナのメンバーはサヨナラのホームを踏んだ選手に駆け寄って狂喜乱舞していた。その喧騒に完全に存在をかき消されたRiveraがマウンドからゆっくり歩いて降りて行く。Riveraがそのとき一瞬みせた笑みは今でも頭に焼き付いている。そのかすかな笑みは運命の流れにあまりに無力だった自分自身をあざ笑っているかのようだった。

「Destiny」

この年のオフ、1998年から黄金時代を築いたメンバーの大半が引退、あるいは移籍によりヤンキースを去った。無敵の名を欲しいままにした史上最強のチームは静かにその幕を下ろした。

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