第1章 『天使の微笑み』

私が大学院時代を過ごしたYale大学はNew Yorkから車で北に約100キロほど上ったNew Havenという町にある。緯度でいえば青森くらいだったと思うが、それだけにNew Havenの秋は私が生まれ育った東京と比べると期間的にも短く、秋分を過ぎてから冬に入るまでは驚くほどの早さだ。紅葉といっても色がつき始めたと思ったらすぐに枯葉で道が覆われてしまうという有様である。さらに追いうちをかけるように10月終わりには夏時間から冬時間に1時間変わるため日が沈む時間も一気に早くなる印象を与える。そのせいかこの時期はなんとも陰鬱な気分になるものだった。大学院に入学してから何回目かになるその年の秋も自分にとってはそれまでと全く同じ秋だった。この日もうっとうしい気分の朝を迎えるとほとんど条件反射的に研究室へ向かった。私が所属していたStrittmatter研はYale Psychiatric Institute(YPI)という建物にあり、精神病院といっしょになっているせいか、研究室に到達するためには3回もIDカードを通さなければならない。この日もいつものように入り口で一回、エレベーターで一回、最後にエレベーターをおりてから一回と計3回IDカードを通して研究室に入った。

私は研究室に着いてすぐに見慣れない女性の存在に気付いた。「Hi」と社交辞令的に軽く挨拶をするとその女性も「Hi」と笑顔で返した。大きく澄んだ目を持った美しい顔立ちだった。身長は170センチに少し足りないくらいか。なによりも一瞬目が合ったときに見せるその微笑みには包み込むような温かみがあり、世の中のどこにも行き場をなくしてもなお大切に見守っていてくれるだろうという気分にさせる不思議な力があった。その女性はとなりの研究室をローテーションすることになった学生で、名をアリシア(仮名)といった。

米国の大学院ははじめの1年目にいくつかの必修あるいは選択授業を受け、それ以外の時間をつかって2−3の研究室を3か月ごとくらいでローテーションする。ローテーションして気に入った研究室で学生は学位論文の仕事をすることになっている。

アリシアとはそれから毎日顔を合わせるようになった。聡明で好奇心が強く、私の研究内容の話にも熱心に耳を傾けていた。時折はさむコメントや質問も理にかなっていてそのテンポのよさはなんとも気持ちがいいものだった。

アリシアがとなりの研究室で働くようになって2週間ほどたったある日、私の同期のニック(仮名)が道端でアリシアと話こんでいるのを見た。入学当初彼はまだ20代前半の若さで希望と野心に燃えた学生だった。一見神経質そうで気弱な印象を受けるが、研究の話になると急に声に張りが出て、その青い目には強い光がやどった。一緒に食事にいったりすると、いつまでも論文や自分の夢の話を延々と続け、それが本当に楽しそうに話すものだから私もついつい引き込まれて長居をしたものだった。

しかし研究というものはうまくいかないものだ。経験上たいていの実験は思い通りにいかない。理想通りに進まず不毛ともいえる日常の中にも、ごくまれにすべてが輝いてみえる瞬間がある。その瞬間を忘れられなくて多くの研究者は砂漠のように干上がった長い時間を受け入れることができる。このことは何年もの格闘の末にできあがった完成品の論文を読んでいるだけではわからない。

大学院生のはじめの頃はその完成品の論文を読むことに終始するが、その過程で学生がもった根拠のない希望は自分のプロジェクトを開始するようになるとまずはじめに無残に砕け散る。そうなることによって研究者としての将来に失望して大学院を退学したり、消化試合のような生活を無表情に送っている学生をたくさんみてきた。

ニックもそういう学生の仲間入りをするのにそう時間がかからなかった。そのころになるとニックはどういう実験をやっているのかということを説明したあとに「まあどうせうまくいかないんだろうけどさ」と投げやりな捨てセリフを残すことが普通になっていた。まわりの同僚が苦しみながらもそれなりに面白い結果をだし始めていた時期だっただけに彼自身かなり追い詰められていたのは事実であろう。

そういう中にあってもようやく彼のプロジェクトは形をなし始め、面白い内容というものからは程遠いとはいえもう少しで論文になるというところまできていた。しかしそんな彼のささやかな安住の地もある日突然消えてなくなった。競争相手が全く同じ内容の論文を発表したのだ。これによりニックのこの何年かの研究は一瞬で無に帰した。こうしたことはこの業界ではよくあることだが、ニックの最後の心のよりどころを消滅させるのには十分なものだった。

私がアリシアと彼が話しているのを見かけたのはそうした時だった。意外にもその時道端でアリシアと話していたニックは楽しそうに笑っていた。そんな彼の笑顔を見るのはかなり久しぶりだったと思う。彼は私の姿を見るとアリシアに別れを告げて走りよってきた。

「Takuya。アリシアのこと知ってる?」

「知ってるよ。となりの研究室をローテーションしているからな。」。

それから彼は1時間ほどアリシアの話をまくし立てた。いくら鈍い私にも彼がアリシアのことを随分と気に入っていることは手に取るようにわかった。その後時々ニックからはよく二人で会っているということを聞いていた。あの温かい春風を心の中に吹きこむような不思議な微笑みがその時のニックにとってはドラッグに近いものになっていたのだろう。

それから何週間かたったある日に私はNeuroscience programのpartyに参加した。そこで私が入学してすぐにローテーションした研究室のボスで大学院生の入学選考委員もやっているHaig Keshishianと久しぶりに会った。中肉中贅の小男で、メガネをかけた繊細そうな顔は女性的にさえ写った。彼は15歳くらいのころアルメニアから米国に移住してきたそうだ。相当苦労してきたのかたいへんな人格者で学生の評判もよかった。私が卒業した2000年には学生の投票により優れた指導者に与えられる「Mentor of the year award」を受賞している。

そのとき彼はワインのグラスを片手に会場のはじの方で一人立っていた。少し疲れたような表情だったので私は寄っていって

「どうしたんですか?」

と声をかけた。Haigは私に

「Takuya, 困ったことになったよ。アリシアって知ってるよね。」

と言った。このときふとニックの顔が頭にうかび、一瞬胃のあたりがきゅっと締まるような感覚がした。Haigはふっと軽くため息をつくとさらに続けた。「彼女はとんでもない女だったよ。彼女がYale大学大学院を受験したときに提出していた推薦状、大学時代の成績、卒業証明書、すべて偽造だったんだ。彼女が卒業したっていう大学に問い合わせたらそんな学生存在してないって言われたよ。もちろん推薦状を書いたことになっている教官も知らないって言っていた。数人の学生からアリシアにお金を預けたまま戻ってこないっていう苦情が来たんだよ。学会に行く費用を徴収しているとか言われて渡したらしいんだけど。まあ被害額はそんなに高くないんだけどね。それで調べてみたらこの有様だよ。昨日警察に逮捕されてね。今は刑務所にいるよ。警察ではアリシアって名前自体も本当かどうかわからないといっていたよ。いったい彼女は誰なんだ?」。

米国の大学院を受けるためには共通のテストであるGRE(graduate record examination)のスコア, エッセー、大学学部時代の成績表、推薦状、外国人の場合はこれにさらに英語のテストであるTOEFLのスコアを提出することが基本である。日本の大学のように各々の大学に足を運んでそれぞれ試験を受けるというしくみにはなっていない。したがって多数の大学をいっぺんに受験することが可能だ。当然日本と比べても大学あたりの応募者の数ははるかに多く、たいていは倍率が20倍以上である。それだけに選考する側も、厳しく応募者の履歴の裏をとるなどということにまで手が回らないのが現状だ。この名前のない女性の出現は当時Yale大学に大きな波紋を呼び、大学院生の入学選考システムの盲点を浮き彫りにした。そしてこのときを境にニックは大学から姿を消した。その後彼には会っていない。

私は自分のプロジェクトの競争が激しかったせいもあり、このことはしばらく忘れていた。めでたく学位を取得し、いよいよStrittmatter研を去ることになった2000年の秋の暮れにふとこの事件のことを思い出した。私はボスのStrittmatterに

「アリシアって覚えてる?」

と聞いた。

私のボスだったStephen M. Strittmatterは長身でがっちりとした体格をしていた。顔立ちは整っていたが「隙がない」という印象を与えるようなものではない。目じりは若干下がっていて口元は絶えず穏やかな微笑をたたえているようで、いわゆる「甘いマスク」という部類に属するものであろう。大半の研究者が小汚い普段着で仕事をしている中、彼はいつもパリッとした背広姿をしていてかなりきっちりとした印象を周囲に与えていた。Scientistの資質がなんであるかという問題はさておいて、「頭脳明晰」ということにかけては彼ほどの男はこの業界にもそうはいないだろう。口数は少ない方だったが、彼の口から出てくる言葉はいつも論理的で無駄がなくしかも的確だった。彼は間違いなく「ナイスガイ」ではあったが、アメリカの厳しい競争社会で勝ち残ってきた連中にありがちな「無駄なものを切り捨てていく」という無機的な合理性も同時に兼ね備えていた。

彼はそのとき丁度誰かの机の上にあった実験のデータに目を通していたが、ふと顔を上げると少し眉間にしわを寄せながら「誰だったっけ?」といった表情をした。しかしすぐにその表情ははじけていつものさわやかな笑顔に戻った。彼が口にしたのはたった一つのsentenceだけだった。

 

She was here and disappeared.

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