「泥の中で成長して根を張り、やがて清楚で美しい華を咲かせる」
最近仕事で生まれて初めて沖縄に行った。その時に長い間脳のどこかに閉ざされていたある女性の記憶が蘇った。
炎のような働き方だった。俺の研究者人生でこれほど働く人間を見たことはない。とにかくいつ寝ているんだろう?と勘ぐらせるくらいの仕事量だった。
もう10年も前になる。当時俺はアメリカのニューヨーク周辺にあるエール大学の大学院生だった。アメリカの大学院では1年ほどいくつかの研究室をローテーションしてからどこで学位論文の仕事をするのかを決める。俺は9月に入学してから最初の冬には決めていたから、かなり早い方だろう。もともとあまり悩むほうではないらしい。配属先が決まってから1年ほどたった冬のことだ。俺が所属していた研究室ではできない実験技法を習得するためにアメリカ東海岸のとある研究所に2−3か月滞在したことがあった。俺が彼女に出会ったのはその時だった。日本人だった。背はスラッと高く足も長い。体もかなりの細身で顔も小さくモデルのような体型とはこのような体型のことを言うのだろうなと思ったものだ。
話しているうちに不思議な訛が日本語にあることに気付いた。その訛は心を穏やかにさせるというか、今風でいうと癒し系という感じのものだろう。聞いてみたら沖縄出身だった。顔立ちは沖縄独特の掘りの深い顔つきとは違い、沖縄でいう内地、つまり本土の顔立ちに近いものだった。目はやや大きめで少し目じりが下がっていたが、顔全体としてはキリッとした雰囲気をもっていた。かなりの美形といっていいだろう。年齢は25−6歳といったところで、当時の俺とほぼ同じくらいだったと思う。年齢からいったら大学院生だろうとも思ったが、どうもそうではないらしかった。実のところどういうpositionだったのかははっきり覚えていない。
まあ俺も若かった。近くにそんな女性がいればちょっと話しかけてみようって気になることぐらいは許してもらいたい。話してみると緊迫感を感じさせる顔つきとは裏腹にかなり明るくて気さくな印象だった。割とよくしゃべるがしゃべりすぎるというものではなかった。どこかにちょっと抑制が効いているところがやや年齢不相応の大人っぽさを感じさせた。
彼女の研究分野は発生学だった。発生学は簡単に言えば受精してから産まれ、成長していく過程の様々な生命現象を研究する分野である。これは俺の気のせいかもしれないが、やはり子供の誕生、成長に関連した分野のせいか女性の研究者が多い分野であるように思う。
さすがに今は少しは更正したが、俺はひどい夜型だった。まわりがなんと言おうと、午前中から働くことは旅行後の時差ぼけ状態のときくらいで、たいていは午後に研究室に現れる。それで夜中までずっといるかといえばそういうわけでもなく、夕飯を食いに家に戻り、食後の睡魔にもあっさり敗れ去り、また研究室に戻るのは夜中という働いているようでそうでもないようななんだかよくわからない感じだった。おまけに実験の失敗なんかで遅くなったりすると、翌日からどんどん時間がずれていき、1週間で24時間を1周してしまうという全く生物時計を無視した生活になってしまうこともあった。
彼女はいつもいた。
俺もあのころはそれなりに血の気が多かったので、仕事量で負けてることにちょっとした嫉妬心のようなものもあった。
「よく働くな。なんでそんなにがんばれるんだよ。家あるの?」
と若干嫌味ったらしく言ってみたことがあったが、彼女はさわやかな笑顔を見せながら、
「だって、たくさん働いて疲れたらすぐ眠れるじゃない。」
などという答えになっているようななっていないような謎の返事をした。確かに彼女が自分のベンチで顔をうずめて寝ていることも時々みかけた。これが彼女の言う「すぐ眠れるじゃない」ということなのだろうか。
この他に彼女にはもう一つ大きな特徴があった。この特徴に気付いたのは彼女が例によってベンチに突っ伏して仮眠を取っている時だった。彼女が着ていたTシャツがうつぶせているおかげで伸びてしまい、首もとの襟はいつもよりもかなり下がっていた。その普段は隠れている肌の部分に一輪の大きな花の模様を見つけたのである。なんかの花の刺青だった。アメリカでは日本よりも刺青を入れてる人は多いのだろうが、当時俺は日本からアメリカにきてまだ1年くらいだったので刺青というのには正直ちょっと驚いた。別に男女差別しているわけではないとは思いたいが、女性の刺青だったということも結構ショックだったように記憶している。
そんな俺の気配に気付いたのか、彼女は起きてこっちに振り向いた。俺が見たものを察したのだろう。先手をとって、
「ああ、刺青ね。見えちゃったのね。やっぱり気になるよね。」
と軽い調子で言った。俺はちょっと戸惑ったが、妙な意地を張り別に気にしてないよといったことを主張する感じで、
「まあ別にどうってことじゃないけど。何の花?」
と苦し紛れに聞いてみた。彼女は、
「蓮の華よ。知ってる?仏教だと蓮の華ってすごく縁起がいいの。せっかくだから全部見せてあげる。」
と言っておもむろにTシャツを脱ぎだした。夜も遅かったので他に誰もいなかったが、この行動にはさすがに俺もたじろいだ。
彼女の若干茶色がかった美しい背中には見事な蓮が描かれていた。首の近くに咲いた大輪の華からは腰のあたりまで茎が伸びていて、 根っこのところでその茎をいもりだかやもりだかがくわえているといった構図だった。
「これ私が下書きしたの。いいセンスしてるでしょ。」
もともと俺は宗教とは縁が薄い。蓮が仏教という感じのつながりくらいはなんとなく知ってはいたが、その意味などは当時は全く知らなかったし、正直今も正確にはわからない。
これがきっかけになったのか、彼女とは前よりもよく話すようになった。といっても彼女は相変わらずで、特に印象が変わったということはなかった。俺も単純に、
「若くしてアメリカに女性一人で来るくらいだから、自由でさばけてるんだろうな。まあ
こういうのにかぎって苦労知らずのお嬢様だったりするんだよ。」
程度に思っていたような気がする。
そんなこんなで2か月くらいが経った。そんなある寒い日の深夜に、ひょんなことから彼女のもう一つの刺青を見つけた。彼女が実験をしている後ろを通りがかった時に俺の肩が彼女の背中にぶつかってしまい、彼女は濃塩酸を腹のあたりに少しこぼしてしまった。焦った俺は、
「まじで、悪い。ちょっと待ってくれ。シャツは脱いだほうが」
とか言いながら彼女のシャツの腹のあたりをつかんだ。塩酸の臭いに混じってほのかな甘い香が漂った。そのときに一瞬はだけたへその上あたりに乳児と思われる小さな刺青を見つけた。彼女の引き締まった腹部の少しだけ割れて見える腹筋の上にその乳児は安住の地を見出していた。どのくらい俺はその子を眺めていたのだろう?だがその沈黙も彼女の
「自分でやるから。」
と言う声ではじけた。俺はなんとなくいたたまれなくなってその場から去ろうとしたが、彼女はいつものさわやかな声で、
「もう大丈夫。」
と言った。鉛のような空気が二人を包んだ。そして彼女はゆっくりと話をはじめた。
「もう、5年前になるけど、私子供を産んだことがあったの。まだ日本にいたころで、当時同棲していた人の子供だった。私、母子家庭で育ったんだけどおかあさんはアル中でおかしくなってて、こっちまで頭がおかしくなりそうだったから家を出て彼のアパートにころがりこんだの。妊娠がわかったときには堕ろすっていうことも考えたんだけど、実家がそんな感じだったからちゃんとした家庭にあこがれてたのかなあ。私がいて、子供がいて、お父さんがいてっていう。それで思い切って彼に打ち明けたけど自分の子供だとは認めてくれなかった。アパートも追い出されちゃったし。母親に頼ろうとしたんだけど”お金がないのにどうするの“って取り合ってくれなかった。誰にも祝福されない子供だった。結局友達のところをはしごしてるうちに産まれちゃった。」
「子供は今どうしてるの?」
彼女は一瞬視線を下ろした。
「産まれてから30分くらいで死んじゃった。私の目の前で。私の子宮もなんか大分やられちゃったみたいで、もう子供は出来ないって言われちゃった。だから。」
だから、その刺青はその子なんだな。
「今日は寒いね。もう帰ろうかな。」
と彼女は言って出て行った。一瞬振り向いて軽く笑顔をみせた時にはもういつもの彼女だった。
彼女がその悲劇のあとどういう経緯で渡米し、なぜ研究の道に進んだのかはよくわからない。
彼女にとっての発生学の研究はもうこの世にはいない子供との対話だったのだろうか?あのあ
まりに激しい仕事への献身は心の闇を刹那にも消し去るためのものだったのだろうか?
「たくさん働いて疲れたらすぐ眠れるじゃない。」
あの時彼女はまだ泥の中にいたのかもしれない。蓮の華は彼女のささやかな夢の象徴だったのだろうか。
研究者が研究に身をささげるのにはいろいろな動機がある。高学歴の割にはサラリーも少ないし、金儲けが動機になっていないことは確かだろうが、それが有名になりたいという野心であったり、純粋な知的好奇心であったり、人それぞれだろうとは思う。彼女の場合それがなんだったのかは正直わからない。ただそれが俺なんかが持っているものとは比較にならないくらい大きくて重いものだったということはなんとなく感じた。
あのあとすぐに俺はもとの研究室に戻り、彼女がいた研究室は研究費が切れて閉鎖した。その後の彼女がどこでなにをしているのかは知らない。
蓮は泥の中で成長し根を張り、やがて清楚で美しい華を咲かせる。
