日本人とサイエンス
さて、なにからいきましょうか?時代順にアメリカの大学院進学を考えるようになったきっかけからいきましょう。この構想は高校生のころからありました。なぜ大学からいかなかったのかという疑問もでてきます。個人的には私は小、中、高、大学と1つの国で終えてはじめて体系だった教育がなされると信じています。まあこの問題は本題からずれるのでまたの機会にふれましょう。
研究者になろうという決意がかたまった高校生の頃、まったく事実の根拠もなくただ漠然と考えていたのは「文化の違い」という極めて単純な問題でした。サイエンスはご存知の通り欧米のものです。その構造はすべて欧米流の考え方に基づいています。私は国としての歴史がはるかに古い日本の方がアメリカなどという若造の国よりも深遠な文化を持っていると信じています。ただ、問題なのは日本の深遠な文化の中に欧米流のサイエンスの基盤をなすものがはたしてどれだけあるのかということです。日本人は歴史の長い文化をもっていてそれに基づいた自然に対する独自のコンセプトを持っているとは思いますが、サイエンスとは別物です。したがって今ここで日本流のコンセプトをかかげても欧米の人はピンとこないでしょう。ではどうすればいいのか?日本人にはなにもできないのか?私も日本人である以上なんとかしなければいかんと必死に考えました。自分の持っている、あるいは身についている日本人独自の、そして自分独自の流儀を欧米人に理解させるにはどうしたらいいのか?
私の結論は、まず彼らの文化を知り、自分の考えをそのフィルターに一度通してみればいいのではないかということでした。そうすれば、欧米人にはできない日本人独自の考え方を欧米人に納得させる形で完成させることができるかもしれないと思いました。もしこれができれば逆に非常に大きな強みになるとも思いました。ただこういう作業は意識的にというより無意識的に身につくものでなるべく若いうちにするべき作業だと思います。
要するに「欧米の方がサイエンスのバックグラウンドが強いために研究全般に質が高くスピードも速い。さらに日本の独自の発想を生かすためにも、なるべく早い時期から欧米の考え方を見につけるべきだ。つまり大学院から欧米に行くべきだ。」ということで、大学入学時の目標はこのことを卒業するまでに確かめるということでした。結果的には10年以上たった今でもこの考えは変わりません。
大学時代はいろいろな研究室で研究に参加しました。一番いい経験になったのは大学の4年のときにスイスの研究室に行ったことでした。なんか学校の出席もごまかして3−4か月もそこにいて、論文も1本出しました。たいへん自信になったし、ヨーロッパの研究スタイルを学ぶことができました。
その次にやったのが日本のトップの研究室を経験することでした。私は日本の神経研究では最も有名な研究室の門をたたいてみることにしました。運良く使ってくれるというので必死になって働きました。その研究室は人間も研究も素晴らしいところで、私も非常に勉強になりました。特に私を直接指導してくれた先生はたいへん優秀な上にめんどうみもいい人で、私はたいへんラッキーだったと思います。
ただその先生も時折こぼしておられましたが、研究の中心にいないということの悲哀というか、不利を体感することにもなりました。研究の世界自体を欧米が牛耳っているという現実もありますが、日本に欧米ほど強固なサイエンスのバックグラウンドがないために自分の研究にどうしても100%の確信が持てず、最終的に欧米でやってることを追随するという形に帰着してしまうこともあるのではないかとも思いました。
少し概念的な話になりますが、「Science」というものが投影するものは「Nature」というものとは別物だと考えています。「Science」は人間が「Nature」から受け取った(もしくは受け取ることのできる)情報をもとに「Logic」をベースにして美しい構造物を作り上げることだと思っています。もっとわかりやすく言葉を変えれば「データを基に美しいストーリーを作る」ということです。画家が風景画を描くときに風景を見て心に響く部分を「筆」で描いていくのに似ていると思います。筆や絵の具のかわりに「Science」では「Logic」を使うのです。要するに「Nature」からどのように情報を得て、それからどのようにLogicの構造物を作り上げるのかというところにバックグラウンドの差が出てくるのでしょう。後でもふれますが、研究を10年以上やってきてあらためて実感したのは、日本人がもっとも苦手なのはこの「データを基に美しい(面白い)ストーリーを作る」という作業だということです。具体的には遺伝子のクローニングのような比較的論理的に単純明快な分野はそれなりに世界で戦っていますが、あたらしい概念をつくるというサイエンスのもっとも重要な側面を含んでいる形の研究は苦手だということです。しかしこれはある意味仕方がないことだと思います。
このような日本人の特質はおそらく日本の教育にも原因があると思います。私は「超一流」という段階に到達するためにはまず「一流」という段階を経ないといけないと思っています。研究に限らずどのような分野でもそうだと思いますが、「一流のコツ」のようなものが存在すると思うわけです。研究の場合、それはテーマの設定の仕方とかデータの見せ方とか、要するに今トップで活躍している人たちがある程度共通して従っているある種の「ルール」というか「パターン」というかそういったものです。こういったものを身につけない限り、いくら優れた人間でも頭角をあらわしていくことは難しいと思います。そしてこうした能力は一流の人間から「獲得」するものです。
この「獲得」という能力に関しては日本人は世界でもトップクラスの連中だと思います。日本の教育においては、一方的に与えられるものをなんの疑問をもたないでひたすら受動的に「獲得」していくことが要求されます。このような教育を受ける日本人にとってこの「獲得」という能力は最も身につけやすいものです。したがって、日本人はいわゆる「一流のコツ」をつかむ段階までは世界でも卓越していると言えるでしょう。
さて、「一流のコツ」をつかんだ後「超一流」という段階を目指すわけですが、これは「一流」になるために必要な能力と相反する能力が要求されてくると思います。「超一流」になるステップとはそれまで身につけてきたものを踏み台にして自分だけの新しいものを「創造」する段階です。そのためにはある程度傲慢というかわがままにならないといけないと思います。「過去のもの」を破り新しいものを「創造」するには受動的であっては駄目です。
基本的に「獲得」が優れた人間はこの「創造」という行為が苦手です。これは大半の日本人にある特質でしょう。一方「創造」が得意な人間は「獲得」が苦手なことが多いと思います。こういう人が陥る失敗はひとりよがりになりすぎて自分という世界のみで終わってしまうことです。理想的な形は、まず「一流のコツ」を「獲得」し、その「獲得したもの」を踏襲しつつもそこからから離れて自分のものを「創造」し「超一流」になるという感じでしょうか。そのためには相反する能力である「獲得」と「創造」のバランスが大切になってくると思います。繰り返すようですが、日本の教育システムでは「獲得」にかたよりすぎてしまうのです。先ほど書いた「データをもとにストーリーを練り上げる」ということにはこの「創造」という作業も含まれています。だからこそ日本人にとっては苦手な分野なのでしょう。
少し前にもふれましたが、日本の授業はとにかく受身です。なにか疑問が生じても自由に質問できる雰囲気ではありません。私も経験がありますが、何を聞いても「貴様の勉強不足だ」と言われるだけでどうしようもありませんでした。このような一方的な授業形態の積み重ねで学生は「なにかに疑問を持つ」という癖がなくなり、「創造」にとって非常に重要である能動的な思考が完全に停止してしまうのです。科学は「疑問を持つ」ということから始まったといっても過言ではありません。こういう教育ではすぐれた科学者は育たないでしょう。学校教育の中にトピックはなんでもいいから討論を学生にさせるということを導入するのも一つの手でしょう。「討論」の能力不足も日本人の特徴です。討論自体も能動的な思考力を培うものであり、こういったトレーニングが創造性を高めるのに役立つと思います。ただ教育する側の人間が討論のトレーニングを受けていないので現実的に難しいかもしれませんが。もちろん教育だけが原因ではありません。社会の特質や文化的なものも原因になっていると思います。このことは後述します。
話が多少それましたが、このころ私は大学に入る前に持っていた自分の仮説が正しかったと確信し、欧米の大学院に進学することを決めました。さて、「欧米の大学院に進む」と決めたとき私には2つの選択肢がありました。「アメリカにいく」か「ヨーロッパにいく」かです。当時私はアメリカの研究室を経験する機会がありませんでしたが、論文を読んでいてなんとなくイメージは持っていました。私が当時漠然と考えていたのは「基本的なコンセプトはヨーロッパで出来上がり、重要なことがわかるとアメリカが物凄い勢いで終わらせる」ということでした。もっとも最近アメリカのサイエンスにもヨーロッパ的な色を認める懐の深さみたいなものを感じるようにもなりましたが。
ともあれ、私の研究の趣味にはヨーロッパ的なものが合っていたのですが、ヨーロッパという場所は閉鎖的な部分もあり外国人が入るにはかなり敷居が高いということはスイスへの短期留学で知っていました。しかし、だからこそ競争が少なく好きなことができるのです。その点日本はヨーロッパに近いと思います。アメリカは実際思っていたよりも外国人に対して敷居の高い国ではありましたが、それでもやはりチャンスが多い国です。外国人の自分が欧米の考え方を吸収でき、なおかつその後のキャリアーも続けられる可能性があるのはアメリカしかないと思いました。それでアメリカに留学することを最終的に決めました。
決めてからはいろいろな人に相談してみました。しかし実際に大学院から留学した人がいなかったのであまりプラスになりませんでした。でも当時研究室で私の指導をしてくださっていた先生が協力してくださり、学会で渡米した際に大学院のカタログや大学院生の話を聞いてきてくださったのでたいへん参考になりました。彼は顔の広い人で彼の紹介で夏休みにアメリカで何人かのfacultyに会うこともできました。ただ入学に効果があるような強いコネクションは全くありませんでした。確かにコネクションは大事かもしれませんが、よほど強い時だけでしょう。たとえば大学院に入る前からもうその大学の研究室で働いているとか、そのくらいでないとあまり意味はないと思います。私も学位論文の仕事をしたラボは入学してから決めました。大学院の選考システムはかなりフェアだと思います。
とにかく入学が決まり、渡米しました。アメリカの大学院の最大の特徴は1年目にいくつかの研究室をrotationできるということでしょう。話に聞いていていいと思っていても、実際働いてみると失敗だったと思うことはたいへん多いと思います。あとクラスもあります。結構たいへんでしたね。かなりの量の論文も読まされますし、語学の問題もありましたしね。個人的には消化不良だったのではないかという印象も多少あります。やはり聞き取れないことが多いので、日本語だったら得られるであろう情報の10%ほどしか入ってこなかったと思います。実際仕事をしていても日本語だと「小耳に挟む」程度でも情報が入ってきて実はそれがかなり役に立ったりもするものですが、それは英語だとかなり厳しいですね。まあ帰国子女とかで英語がもともと堪能であれば問題ないのでしょうが。
Rotation,クラスに加えてかなりの労力をさかないといけないのが、Teaching Assistantです。これは学部の学生の授業のfollow upをするものですが、これがかなりたいへんでした。これは学者は後輩を教えないといけないという考え方を裏付けているものでしょう。そうはいっても徒弟制度が根付いていないせいか、いわゆる「学校の先生」の社会的地位が著しく低いのはおかしな矛盾ですね。「先生」という存在に対するrespectの気持ちは日本やヨーロッパとは比べ物にならないほど低いと思います。話はそれましたが、総合するとSystematicなのは確かでしょうが、日本人が入るとして語学の不利益などを加味すると、得ることのできる知識はあまり日本の大学院と変わらないのではないかという感じもします。
ただ一番勉強になったのは「自由にものを考える」という姿勢だと思います。この「自由にものを考える」という姿勢は実は日本人に最も欠けている能力の一つだと思います。これは前述した「データをもとにストーリーを練り上げる」という「創造的」能力の不足と非常に密接に関わっています。
私は個人的に研究にかかわる3つの「チ」というものを掲げています。一つ目は「智」です。これはまあさすがに多少は頭を使う仕事なのでっていうことで入れました。二つ目は「痴」です。研究は時として馬鹿みたいに見えることを延々サルのようにやり続けないといけないこともあります。私の先輩でTransgenic Miceを300も作った人がいましたが、このおそるべき痴性により彼はすばらしい仕事を成し遂げました。愚者の一念ってやつです。そして最後に「恥」です。これは持っていてはあまり得にならない「チ」として入れました。他人がどう思おうと貫き通すことが大事なことは研究にはよくあります。しかしこの「恥」という感覚はそれを邪魔してしまいます。そしてこの「恥」の感覚は日本人の極めて強い特性の一つでしょう。日本の文化は「恥の文化」とも言われてますから。
他人との距離が近いというのもこれに拍車をかけると思います。これは時として非常に暖かさを感じるすばらしいものではありますが、反面他人のことが気になって仕方がないという弊害も生み出します。日本人は他人の噂話が大好きですね。このことが、「恥」と相乗効果をもたらし、「自由にものを考える」ということができなくなるのでしょう。「こんなこと考えていたらみんなに馬鹿だと思われるだろうな。」と思ってしまうことにより、縦横無尽に思考を駆け巡らすことができなくなってしまうのです。
さらにもう一つ、「偏差値教育」も柔軟な思考をとめてしまうと思います。この偏差値教育は単一の価値観でしかものを見なくなる癖をつけてしまいます。特に研究者になるような連中は偏差値教育でそれなりに成功をおさめている人が多いので、この「偏差値」という考え方にがんじがらめになってしまう傾向が強いのかもしれません。たとえば、研究の結果というものは基本的に論文という形になってはじめて歴史に刻むものになります。この論文は様々な雑誌に掲載されるわけですが、それぞれの雑誌の論文がどれだけ引用されたかを示す「Impact Factor」という数字が存在します。このImpact Factorが高い雑誌に載せることは確かに科学者のキャリアーの上でたいへん重要なものではありますが、日本人はこの数字を異常に偏重する傾向があります。
生物系の研究をしている人たちの中では特に医学部出身の人に多い傾向ではありますが、そのような日本人研究者の会話は「どういう研究をしたか」という話よりも「どういう雑誌にのったか」ということに重きが置かれていることが多いようです。これはよくアメリカの研究者が日本人研究者に対して持つ不快感となって反映されていますが、相手を褒めるつもりで日本人が「君の論文どこどこにのってたね。凄いね。」といっても「論文を読んだのか?どこが凄いのかコメントをくれ」といった困惑した反応がよく見られます。論文の内容の方が、どこに載ったのかということよりも重要なのは当然のことなのに、いつの間にか価値の逆転が起こってしまっているのです。つまりこのImpact Factorが多くの日本人の最大の価値である偏差値にとって変わっているのでしょう。
Impact Factorが高い雑誌というのは基本的に今旬の内容を載せることが多いのですが、言うまでもなくこういう雑誌に載せるような研究室はそのトピックがまだそれほど注目されてない頃から研究をはじめ、そのころのデータの蓄積が今になって開花しているわけで、いきなり始めて成し遂げたわけではありません。この辺を勘違いしている研究者がこのImpact Factorにがんじがらめになると、当然はやりの研究をいきなり追い始めるということを繰り返し、結局長い蓄積をもった研究室に競り負けてしまうのです。要するにこの「流行を追う」ということ自体が思考の柔軟性を抑制してしまうのです。
念のために断っておきますが、私は「重要なテーマ」を追うことには賛成です。ただ「重要」であるというテーマが必ずしも「流行」しているというわけではないのです。もちろん「流行」していることは重要なテーマではありますが、「流行」している時点である程度終わりに近づいているということも言えると思います。「重要なテーマ」が長年の苦労により重要であることが確実になり、さらに技術的にもかなり研究しやすい状況になったからこそ「流行」しているのだと思います。大切なのはその「重要」だと思われるテーマがまだ未熟な時点からそれに目をつけ、ある程度時間をかけてそれを攻略していこうという姿勢でしょう。偏差値偏重主義に培われた思考を捨て、もっと長期的な視野をもって自由にものを考えて欲しいものです。
とまあいろいろ書き連ねてきたわけですが、私も日本人です。上に書いたような人間の例外でもなんでもありません。そういう意味で私は自分の理想からかけ離れた「研究者に向いていない人間」の一人です。とはいっても私は研究者としてこれからも生きていくわけであり、正直このジレンマに随分悩んでもいますが、最近は「どうしてくれるんだよ。俺、こんなになっちったよ。なんとか責任とってくれよ。」とやり場のない怒りを持ちつつも悪あがきをしています。
高橋 琢哉
